現在の薬師堂は文治年間(1186~1189)東大寺大勧俊乗房重源がこの地に下ったとき、御草創の遺跡を追想され、再興を発顧され、時の太政大臣藤原兼実の協力を得て元串村清凉寺にあったものを此の地に再建したものといわれ、現在県下では最古の木造建造物と考えられる。
堂宇は桁行5間(16.50m)、梁行4間(13.20m)、単層寄棟造りの茅葺建物で内外両棟に分かれている。
内陣は3間(9.90m)、2面須弥壇は3間通し作り付でほとんど当初のままといってよい。カンナのなかった時代の建物だけに、素材はオノの荒削りで素朴簡素であるが、全体の均整がよくとれており柱上の斗きょうは大斗肘木という簡素な組上であるが、鎌倉時代の質実剛健な気風をよく表している。
堂内には薬師如来、聖観音菩薩立像、四天王像、その他多数の仏像が安置されているが、本尊の薬師如来を納める厨子は唐様で、背面板壁に
「作事日数五百日 文明十二年庚子正月十一日始之 願主 幹都寺 大工藤原景助 仝兄九郎右衛門」
の墨書がある。大きさは桁行3尺6寸3分(120cm)、梁行2尺6寸6分(88cm)で入母屋造、板葺である。
室町時代の特徴をよくあらわす代表的遺構であり、よく完備保存されていて貴重である。
(徳地町史より)